沖縄「慰霊の日」 闇夜に参拝する自衛官と、戦没者遺骨の軽さに感じ る“分断”

沖縄の屈辱を心に、転送せて下さい  岡田良子

沖縄「慰霊の日」 闇夜に参拝する自衛官と、戦没者の遺骨の軽さに感じる“分
断”・
  阿部岳(AERA 2022年6月21日)
https://dot.asahi.com/dot/2022051700092.html?page=1
日本軍司令官の慰霊塔に花束をささげる陸自第一五旅団長(撮影/阿部岳)
 原発と基地――「国益」の名の下に犠牲を強いられる「苦渋の地」で今何が起きて
いるのか。政府や行政といった、権力を監視する役割を担うメディアは、その機能を
果たしているか。福島と沖縄を持ち場とする新聞記者二人が取材現場での出来事を
綴った『フェンスとバリケード』。著者の一人で沖縄タイムスの阿部岳記者が、
沖縄「慰霊の日」に行われる自衛官参拝と、戦没者遺骨を広い続けるボランティア
への取材を通して見た、いまだ続く沖縄と本土との“分断”について綴った第12章
「捨て石の島で」から一部抜粋してお届けします。
■闇夜の参拝
021年6月23日「慰霊の日」。私は今年も、夜明け前の「黎明之塔」で待機していた。
 闇の中から、自衛官の一行が現れた。今年は制服姿が少ない。1、2、3人。先頭に

つ沖縄の陸上自衛隊トップ、第15旅団長が脱帽し花束を捧げる。報道陣のフラッシュ
が光る。一行はあっという間にきびすを返し、来た道を引き返していく。
 塔は沖縄戦の激戦地だった沖縄島南部、糸満市摩文仁の丘の上にそびえる。
日本軍司令官の牛島満と参謀長が1945年6月23日午前4時半ごろ、この場で自殺し
たことをもって、組織的戦闘が終わったと位置付けられる。自衛官の集団参拝は、そ
の時間に合わせて続けられてきた。
 沖縄戦は、何重もの沖縄差別の上に遂行された。沖縄は本土を守るための「捨て
石」
に指定された。戦闘の目標は勝利ではなく、あてどもない引き延ばしだった。だから

里城地下の司令部に米軍が迫っても日本軍は降伏せず、住民が先に避難していた島南

になだれ込み、犠牲を増やした。
 戦前、日本軍は住民を飛行場建設や陣地壕構築に動員していた。いざ戦闘になる
と、
住民は足手まといなだけでなく、軍事機密を知るやっかいな存在になった。沖縄の言

を話す者はスパイとみなして処刑するものとされ、実際に処刑された。「友軍」は自

が生き延びるために住民の食料を奪い、避難場所である壕を奪い、赤子の泣き声が敵

聞こえないように命を奪った。根底にあった住民に対する蔑視が、牙をむいた。
 沖縄戦の死者は約20万人。うち一般県民は9万4000人に上る。その総責任者であっ

牛島はいよいよ自殺する時も、「最後まで敢闘し、生きて虜囚(りょしゅう)の辱
(は
ずかし)めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命じた。住民や部下から降

の道を奪った上で自らは闘わずに死んでいった。
 その牛島の慰霊祭を自衛隊が初めて開いたのは、1976年の慰霊の日だった。前日の

夜、迷彩服姿の自衛官1000人が各駐屯地を出発し、黎明之塔まで徒歩で行軍した。第
1
混成団(現第15旅団)の団長、桑江良逢(りょうほう)の発案だった。沖縄出身の旧

軍大尉。手記に「着任以来の念願であった」と書き残している。
 1972年の日本復帰とともに沖縄に上陸した自衛隊は、日本軍とは絶縁して再出発し

民主主義国家の実力部隊であるはずだった。日本軍のDNA継承を誓うような儀式、異

な深夜行軍は県民の批判を浴びた。当時の沖縄タイムスは「戦争に巻き込まれた非戦

員は何と受け止めるのか」と報じた。桑江は中央トップの陸上幕僚長から注意を受
け、
深夜行軍は一度きりで終わった。
 時代は下って2004年。第1混成団長の君塚栄治が再び、ひっそりと集団参拝を始め

。後に陸幕長にまで上りつめる人物だ。過去の経緯を知らないまま自ら発案したとい

説明に、自衛隊と旧軍の連綿たる結び付きが浮かぶ。
「どうも自衛隊が集団参拝しているらしい」。翌年、私は情報を得て、半信半疑で張

込んだ。現れた自衛官は制服姿の約100人。塔を仰ぎ見て整列した。鎮魂のラッパが

いた。君塚が式辞を述べた。「沖縄を守るために戦った第32軍を現在の沖縄の防衛を

うわれわれが追悼するのは大切なことだ」
 果たして、日本軍は沖縄を守るために戦ったのか。無謀な作戦を肯定するのか。第
1
混成団広報室に見解を尋ねたが、「有志を募って開いた個人的行事」「県民感情を害

るつもりはない」などと要領を得ない答えが返ってくるだけだった。
 以来、集団参拝は毎年続いている。自衛隊はトップ以下が制服姿で連れ立って参拝

ることを「私的参拝」と言い張っている。
引き返せない自衛隊
 2021年の慰霊の日の未明、私は献花を終えた旅団長に質問を投げ掛けた。旅団長は

みを止めず、眼前の暗闇を見据えたまま答えた。
――今回は人数が少ないのですがどういうことでしょうか。
「私的参拝ですので特に。各自の考えかと思います。(新型コロナウイルス)緊急事

宣言下なのでそれぞれが考慮しながら行動していると思います」
――去年は30人くらいでした。今回、制服を着けた方は減っているんですが旅団長の

示でしょうか。
「ちょっと分かりません」
――自身が指示したかどうかも分からない?
「指示はしていません。去年の人数も分かりません」
――批判が起こる中で止められないことが問題だと思うのですが。
「集団参拝ではなく個人的に参拝しているので。慰霊の日に、戦争で亡くなられた
方々
の冥福を祈る思いです」
――旅団長がお付きの者を連れていては私的参拝になりません。
「私的参拝です」
 この日の午後に判明したことだが、15旅団は前年、中央の陸上幕僚監部から「地域

住民感情に十分配慮し、今後はより熟慮の上で対応するように」と注意を受けてい
た。
旅団長も言う通り、コロナ禍が深刻化し、沖縄には緊急事態宣言も出ていた。県民か

批判の多い「伝統」となってしまった集団参拝を取りやめる条件はそろっていた。旅

長が個人として1人で来るのなら、批判も少ないはずだ。
 それでも、止まらない。引き返せない。日本軍もそうだった。戦前と戦後は、確か

つながっている。
 この件で、15旅団の幹部と話をしたことがある。幹部は「亡くなった方々全員を追

するという意味で、慰霊搭を4カ所回っている。それは駄目なんでしょうか」と率直

聞いてきた。確かに集団参拝の一行は牛島らの黎明之塔だけではなく、全戦没者を追

する国立沖縄戦没者墓苑なども回る。私も思うところを率直に述べた。「全員を追悼

るならば、戦没者墓苑だけでいいはずです。日本軍司令官を慰霊しているうちは、自

隊が真の意味で沖縄に根付くことはできないと思っています」
幹部は異論に耳を傾ける度量のある人物だった。「どうするかは別にして、新聞に書

れていることは重いです」と受け止めた。一方で、こうも言った。「司令官も、この

期にここにいなければならなかったという意味では、県民と同じで被害者でもあるん

ゃないでしょうか」
 明白な加害責任がある者に対し、1人の人間として同情を寄せるだけにとどまら
ず、
なぜか免責して被害者として扱ってしまう。特別珍しい考え方ではない。ある意味、

後日本を象徴している。
 特に本土では、地上戦で沖縄の人々が目に焼き付けた「加害者」の姿が見えなかっ

。沖縄戦に続くはずだった本土決戦はついになかったし、空から降り注ぐ爆弾の下で

、みなが同じ「被害者」だった。
■八紘一宇(はっこういちう)
 1億総懺悔(ざんげ)。1億総被害者。宣戦の詔勅(しょうちょく)を出した昭和天

の責任さえ不問にされ、区切りがないまま、日本の戦後はだらりと始まった。一部の

導者が象徴的に処刑されたが、残りは米国と結びついて戦後も支配者の席に居座っ
た。
安倍晋三は日米開戦時の商工大臣だった岸信介の孫であることを誇っている。
 宮崎出張の折に、「八紘一宇の塔」を見た。高さ約36メートル。21世紀の空に侵略

争のスローガンが突き立てられている光景に圧倒される。八紘一宇は「世界を一つの

にする」というプロパガンダ。塔は1940年、「皇紀2600年」を記念し、神武天皇ゆか

の地とされる宮崎を選んで建設された。
 よく見ると土台部分の礎石には「南京」「河北省」などと文字が彫られたものがあ

。当時、日本軍が侵略した地域か石が集められたのだ。最近、中国の博物館が石の
返還を求めたが、塔を管理する宮崎県は「取り壊しはできない」と断っている。
「八紘一宇」の文字は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指摘を受けていったん削り

られた。ところが戦後20年たった1965年、地元経済界主導で再び彫り込まれた。ほと
ぼりが冷めた、と判断したのだろうか。
興味深いことに、名前だけは「平和の塔」と呼び替えられた。なぜ侵略戦争のスロー

ンを刻んだ塔に「平和」の名を与えるのか、真剣に検討された様子はない。戦前のス

ーガン「八紘一宇」が実質を伴っていなかったのと同じように、米国から与えられた

後のスローガン「平和」もまた、空虚な内実を問われないまま、まかり通ってきた。
 GHQの総帥マッカーサーはスムーズな日本統治のために天皇免責を必要とし、天皇

責を他の連合国に納得させるために平和憲法を必要とし、平和憲法の非武装路線を裏

けるために沖縄要塞化を必要とし、沖縄要塞化のために直接占領を必要とした。昭和

皇も沖縄の占領継続を望むとの「天皇メッセージ」をマッカーサーに伝えた。
 日米合作の「平和国家日本」と抱き合わせにされたのが、「軍事の島沖縄」だっ
た。
戦中に続いて日本から切り捨てられ、「非核三原則」を掲げる日本に代わって核兵器

背負わされた。
 日本と違って沖縄では「平和」は単なるスローガンではあり得なかった。常に切実

目標である。
 1929年生れの島袋文子は沖縄のそんな戦前戦後を生き抜いてきた。だから、加害者
と被害者の境界をあいまいにすることを許さない。「神様だと信じた天皇は沖縄を米

に売って自分の命を守った。ヤマトはのうのうと生き、私たちが犠牲になった」と怒
りをぶちまける。 島袋は16歳で沖縄戦を迎えた。故郷の現・糸満市は最後で最大の
激戦地となった。目の不自由な母と10歳の弟の手を引き、死体をまたぎ、砲弾の破片
をかいくぐってさまよった。
ある夜、地面に光る水をすくい、母、弟と分け合ってのどを潤した。翌朝その場を去

際にふと振り返ると、水たまりには死体が浮いていた。死者の血を飲んで生き延びた

だ。戦後も母と弟には黙っていた。
 島袋が「亡くなった人に生かされている。支えられている」と言う時、それは比喩

はなく事実そのものである。だから、戦争体験を語れば夜は眠れなくなることが分
かっ
ていても、求められるままに語る。戦争につながる事態の一つ一つに烈火のごとく怒

。「沖縄の反戦おばあ」などと呼ぶメディアがあるが、そんな生やさしいものではな

。「ダイナマイトで爆破してやりたい」という啖呵(たんか)は何度も聞いた。
 どういう巡り合わせか。そんな島袋は名護市辺野古で暮らしている。コロナ禍が始

るまで、地元に新基地を建設しようとする政府に抗議するため、杖をつき、あるいは

いすに乗って、基地のゲート前に通った。生コン車の前に立ちはだかり、止めたこと

ある。警察官に排除された拍子に倒れ、頭を打って意識をなくしたこともある。それ

も通い続けた。
「年寄りはここに来ても何の役にも立たないねえ」と歯がゆそうだ。だが、島袋の存

そのものが沖縄の歴史を体現し、人々を鼓舞する。私はその背中を長く見てきた。
 具志堅隆松は2021年、辺野古新基地建設に反対し3度のハンガーストライキに臨む
ことになった。1954年生まれで、戦争は知らない。ただし、40年近い遺骨収容のボラ

ティア活動を通じて、戦死者の「声」に耳を傾けてきた。沖縄の言葉で壕(ガマ)を

る人、「ガマフヤー」を自称している。
 どうしても許せないことがある。政府が辺野古沿岸を埋め立てる土砂を沖縄島南部

ら採取する計画を明らかにした。かつての激戦地に眠る戦死者の遺骨は何年収容して

収容しきれない。細かく砕けた骨と血が大地に染み込んでいる。「その土を海に放り

んで人殺しの基地を造るというのは、死者への冒涜です。裏切りです。どう考えても

違っている」と声を震わせる。
 具志堅の収容現場の一つに、日本軍が構築した陣地壕がある。入り口付近に、お年

りと子どもの遺骨が散らばっている。「入れてもらえなかったんじゃないか」と、具

堅は言う。日本兵がわが身かわいさに住民を壕から追い出した、という証言は数え切

ない。
 奥深く分け入った壕の中でも、黒く炭化した遺骨が見つかる。中に逃げ込めたもの

、火炎放射器の炎が別の入り口から回ってやられたのではないか、という。暗闇の
中、
具志堅が額につけたライトの光に浮かぶその骨は、日本兵だろうか。
 具志堅は住民も兵士も分け隔てなく収容を続ける。地面に体を投げ出し、慎重に掘

進めるその姿は、遺骨を抱き取るかのようだ。
開戦前夜
「東アジアは現在、歴史上最も緊張が高まっている」と、陸将補が言った。というこ
とはもはや戦時中のようだということか。陸将補は「開戦前夜」とも口にした。
 飲み屋での話ではない。自衛隊沖縄地方協力本部が公式に開いたメディア向け説明

の席だった。本部長の陸将補は10人ほどの記者を前に、中国の脅威を説いた。
 2021年4月、沖縄島南部の陸上自衛隊知念分屯地。中距離地対空誘導弾の改良型が

国で初めてこの基地に配備され、そのお披露目を兼ねていた。敵の航空機やミサイル

より正確に迎撃できるという。
 南九州から台湾に至る琉球弧では今、自衛隊の増強が猛烈な勢いで進んでいる。与
那国島、奄美大島、宮古島に新たな基地ができた。石垣島、馬毛島でも建設工事や計
画が進んでいる。自衛隊と米軍は島沿いに最新鋭ミサイルを並べ、中国の海洋進出に
対抗を図る。米中双方が琉球弧を「万里の長城」と表現。米国は「防御壁」、中国は
「障壁」と見る。イメージはよく伝わってくる。
「壁」は何か別の大切な物を守るために造られる。いざという時、壁そのものは守ら

るだろうか。守る価値があるとみなされるだろうか。
 その答えは、足元に眠っている遺骨だ。
 具志堅の遺骨収容をわずかな時間だけ手伝わせてもらったことがある。借りた鎌を

まく使えないから、両手で土をすくって骨片をより分けた。でも、爪の先より小さい

うなかけらは骨か石か、とても判別できない。「遺骨収容が終わることはない」とい

具志堅の言葉の意味が体感として分かる。収容しながらも手のひらからこぼれ落ちて

く喪失感がある。
 白茶色の地面から、同じ色が染みた板状の骨片が出てきた。縫合部のぎざぎざがあ

頭蓋骨だ。 具志堅が横で掘り出した歯は9歳くらいのものだった。歯を失っても生
きられるが、頭蓋骨を失って生きることはできない。
「いつの時代でも守られるべき存在の子どもが、なぜ犠牲にならなければいけなかっ

のか。考えると、手が止まる」。具志堅は深いため息をつく。
 なるべく多くの人に収容を手伝ってもらっている。昔ここで戦争があったそうだ、

はなくて、戦争があった事実を自分で確かめ、自らの言葉で語ってもらうために。
次の戦争を止める責任を担ってもらうために。
 たとえ収容が完全に終わらなくてもいい。新たな遺骨を積み重ねないことが、戦没

の真の慰霊になるのではないか。
夢中で掘る。さらに出てくる。板状が確認できる頭蓋骨のかけらだけで4枚になっ
た。
 乾ききった骨はとても軽かった。軽さに動揺を覚えた。どうしていいか分からず
に、
ただ指でなで続けた。